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個性がつぶされる広告(2002年8月)


今のテレビCMって、よくよく考えると、覚えてないですね。つまり、心にまったく残らない。これはぜんぜんよくない気がするんですが、どうなんでしょう?

これに対して、それに対するパーツ、たとえば出演しているタレントさんや後ろでかかっている音楽は、比較的記憶に残ります。たとえば、「生茶」のCMといえば「松嶋菜々子」なわけで、AQUAの「CARTOON HEROES」なわけですよ。

でも、全体としたら記憶が薄い。

これは「記憶に何が残りやすいか」というのを考える上で、結構面白いことなんですが、それとは違う感じでもう1つ、全体が記憶として残らない理由を考えてみました。

(1) 結局、デザインがされていない。美観より収益性を優先する現在の企業、マスメディア、広告代理店の姿勢の問題。

(2) ばらばらでまとまりがない。たとえば、デザインだけ、テキストだけ、カメラワークだけが浮き上がって、全体としてのつながりがなかなか見えてこない。

(3) つまり、ディレクションができていない。

(4) 作り手が楽しんで作った気がしない。どちらかといえば、仕事!と意識しまくって作っていたような感じを受ける。

こんな感じですかね。

これは認知科学の言葉で言えば「印象」という問題と直結します。しかし今回は、そういうのからは離れて「個性」というポイントからあれこれ書いてみましょう。

今の広告制作は非常に細分化されています。デザイナーはデザインだけ、コピーライターはキャッチコピーだけのような感じです。

それに加えて作り手とそれを売り込む人間はまったく別の人です。

もう気づくと思いますが、このように細分化すればするほど、本来あるパワーがどんどん失われていき、どちらかといえば崩壊へと向かっていきます。

人が増えれば増えるほど、個々の個性は無視される方向に働きます。これはようは個性に気づかないわけではなく、気づいてもラインから外れるのを避けてまとめようとする力が働くためです。

もちろんこれ自体は必要なことです。なければ、いつまでたっても完成が見えてきません。でも、ことクリエイティブな世界にそれが強く見られると、結局は楽しくない、どうしようもないものになってしまいます。

1人1人に与えられた仕事はそれ以上を望まれることがなく、逆に言えば、下手に手を入れればアウトなわけです。

ウェブの世界が変なというか、突拍子もないデザインにあふれているのは、そういう広告制作にあったあえて言うなら「しがらみみたいなもん」が薄くて、実験みたいにできるからでしょう。作り手は多くの場合1人ですし、作り手とそれをほしがる側がかなり近い。そして、その実験が多くの人に認められている。

そう、個性が認められるということは、大変大きなことなのです。

逆に言えば、今のマス広告はあまり認められていないのかもしれません。

この状況を打開するには、みんなで一緒にやっていく、ちゃんと話し合って面白いことを考え出す、極度に細分化はしない(マネジメントとクリエイティブを分けるのはいいが、それぞれの中を分けるのは基本的に破綻を招く)なんてことに気をつけつつ、それぞれ「クリエイティブマインド中心」にものづくりを進めることです。

そんなこと言ったって仕事は仕事なんだ!という人もいるかもしれませんが、その広告が届く相手もまた生身の人間です。受け手にとって作り手の事情なんて関係ありません。

人があーだこーだ言うことに従うのは結局個性をつぶすことです。

それは今まで自由だったウェブの世界へも流れ込んできています。

ユニバーサルデザインとか、ウェブユーザビリティなんて言葉がありますが、あれは本当なら誰かが決めるものではなく、作り手、ビュワーそれぞれで違って当たり前なことです。

はっきり言います。ああいうのが載っているものがあったら、単なる評論として無視しましょう。もちろん、見やすく作るということは大事ですが、それによって人のデザインを否定するのは決して正しいことではありません。

このように今の世界はたとえクリエイティブな世界であっても、個性が抑圧されていく世界です。

本当に無意識の世界に抑圧される前に、一回このねじを緩めてみませんか?

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