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働くことを考える。(05年5月)


5月です。私は相変わらず書いたり読んだり、そして、ピコピコしたり(えてして、PSPでRPG)しています。RPGはやり始めると時が経つのを忘れてしまうのが問題ですね(^^;)

5月18日の朝日新聞、1面にどかんと「『うつ病』の診断書は大体、表現が弱められている!」といったことが載ってました。そのまんま「うつ病」と書いてしまうと、働いている人々が大変なことになりかねない、最悪、クビになっちゃったりするから、ちょっと弱めて書く、ということですね。なんていうか、やっぱ、そうなのかあ、という感じです。

その記事の脇には「会社のトップや上司にメンタルヘルス教育をすることが大事だ」なんてことが添えられていました。しかし、私、これには疑問。教育くらいで今の状況が変わるとはあまり思えません。教育を信用していないのではなくて、それ以上に根深いものがあるんじゃないか、と思うからです。

ちょっと話をすり替えて、今の日本、フリーターやニートが「社会悪」のようになっている、このことを考えてみましょう。つまり、何でこれらが問題なのかをちょいと考えてみます。

具体的な問題はいくらでもあげられます。働いてない、将来やばいエトセトラ。でも、よーく考えると、それ、ほんとに問題なんだろうか?と落とせる部分があると思う。例えば、フリーターは就職しないからダメだ!とよく言います。では、何で「会社に就職しなきゃダメ」なのでしょう。ただ、働いているだけでは、なぜ、ダメなのでしょう。

フリーターやニートへの対策、それもみな「会社に就職できるように支援する」「会社には積極的に雇用するよう働きかける」と、そっちの方向に向いていますが、何がそっちに向かうのでしょうか?

このように常識になっていることの根拠を考えることはとてもとても大事な行為です。常識は疑え。これ、研究の鉄則だったりします。

で、私なりに考えてみた。結果、こんなことを思いつきました。

日本という国のバックグラウンドには、「会社に行くのがノーマル」という「暗黙の了解 tacit approval」があって、そして、その「社会的規範 social norms」つまり、社会にとって正しいと「みんなが思っていること」を行なうことが、一人一人に要請されているのではないか、ということ。

この考えで行くと、フリーターやニートといった人々は、その社会的規範から外れた、いってみれば、アブノーマルな人々になります。そして、そういう人々には「異常」というレッテルを貼った上に、それを是正するための「社会的圧力 social pressures」をかける。それが「会社に入って働け!」という言動、行動につながるんじゃないんだろうか。

ぶっちゃけってしまえば、「フリーターであってもいい社会にする」ことのほうが現実的だし、抜本的な解決になると私は思います。なぜなら、原点に立ち返れば、仕事なんて、誰がどんな風に何したっていいんだもの。あれこれ問題になっていますが、それは今の社会にそこまでの柔軟性、弾力性がないということなのです。ならば、柔軟性、弾力性を持つ社会を構築しなおせばいいのではないでしょうか。

でも、そんなこと言おうものなら、今度はその発言が現在の社会的規範から外れてしまいます。つまり、「フリーターを擁護するのか!」となる。そして、そういう発言をした人にも社会的圧力がかけられ、結果的に、意見は残ったとしても、規範の構造は強化されることになります。

私のこの発言、適当に言っているように思うかもしれませんが、これは犯罪社会学や犯罪心理学の世界で言われる「ラベリング理論 labeling theory」というものの考え方のちょっとした応用だったりします。

つまり、社会、ていうか、他人の手でその人にラベル(=レッテル)が貼られる、そこからすべてが始まるのです。

この流れで考えれば、うつ病のことを上司に教育したところで、理解は多少進んでも、すべての問題をそれで解決できるようにはならないだろう、ということは簡単に推測できます。言うまでもなく、「うつ病」というラベルは、相当マイナスな力を持つだろうからです。

これは何も「うつ病」だけに留まらないでしょう。例えば、まったく何にもない普通の人だって、ちょっと都心から離れたところに住んでいるというだけで、他人の力で「田舎者」というラベルを貼られてしまう可能性があります。そして、このラベルは人によってはめちゃくちゃ強力に作用しかねません。何しろ、血液型だけでラベルになっちゃうんですから(血液型占いを信じている人にはね)。

もちろん、世の中にはプラスのラベルもあります。でも、それが過剰な期待になったりしちゃったら、結局マイナスのラベルと変わりません。例えば、私立大じゃお金がかかるから、といって、国立の、しかも東大あたりに進学して、卒業したとする。でも、多分、その人に周りが与えるラベルは「東大卒のすごい人」です。すると、過剰な期待がかけられかねない。下手なことをしたら、「東大出ててそんな?」とか言われちゃう。

どこに住んでようが、大学がどこだろうが、本当は何も変わりません。職業も同じ。えらい仕事、最低の仕事なんていう分類は本当はどこにもありません。

でも、私たちはそれにラベルというものを貼り付ける。わかりやすくするために。しかも、他人に対して、主観的に。自分の手によって客観的にラベルを貼り付けるなら、まだ、何とかしようがあると思うんだけど、人の手によって主観的に貼られた日には、それをひっくり返すのは大変です。それが結果的に、人々を左右しかねない。「うつ病」なんていうラベルは、今の時代にはまだ無理なのです。

ただまあ、ここで止まっていては話が進みません。うつ病だろうが、フリーターだろうが、田舎者といわれようが、東大卒だろうが、とりあえずみんな生きていかなければならないのです。そうなると、この社会を生きていくためには、つまり、仕事をするためにはどうしたらいいのか、そこを考えることが必要になってきます。

私が思いついたひとつの解決策。それは、会社のことをとりあえず棚に置く、というものだったりします。

会社で働く、そのことにこだわるから、やめさせられるんじゃないか、とか、そんな方向に行ってしまうんです。なら、一瞬、会社のことを忘れてみる。で、自分なりに動きやすいシステムを作っていってしまえばいいんじゃないでしょうか。

「また、そんなこと簡単に言って」と思うかもしれませんが、冷静に考えてみると、いまどき、インハウスな仕事ならこういうことは比較的簡単にできる気がします。

例えば、4、5人くらいの小さなユニットを作る。前々から関係がある人々で、何かあったらすぐ会えるくらいの、地理的に近い人々だと、よいでしょうね。地理的条件は絶対ではないですが、近ければ近いで遊んだりなんだり、楽しいことができるだろうからです。

このとき、メンバー構成はぐちゃぐちゃで構わないと思います。例えば、うつ病の人、そうじゃない人、ぐちゃぐちゃに混ざっていてオーケー。自分がうつ病だからといって、必ずしもうつ病仲間が集まらなければならない必要性はないのです。特に、仕事をしていく上ではね。うつ病の人の周りに集まる人は、うつ病について理解がある人の可能性が高いですし。

それぞれのメンバーは、自分たちのできる範囲で仕事やコミュニケーションをしていく。そしてユニットをやっていくことになります。確かに、SOHO(Small Office, Home Office)のようなものを考えれば、個人個人ばらばらでも仕事は成り立ちますが、ユニットのほうがいろんな場面で強みを増すことができます。

一人ではこなせないような大きな仕事とかのときはもちろんですが、それ以上に、取引相手がブランドネームとかにこだわるところだったりするときに、このユニットってのが効くのです。そういう時、個人はきつい。何しろ、自分の名前しかないですから。業界の中で相当有名にでもなっていない限り、下手すれば、相手にされないかもしれません。そういう時、個人でやるとしても、「イシザカワタル(8085)」みたいにユニットの名前を後ろにちょっとつけられれば、それだけでも体裁は整います。結果的にそれはユニットの仕事にもなり、次の仕事につながっていたりするでしょう。つまり、ユニットが便宜的な会社の機能をしてくれるのです。

ユニットだからといって、取り立ててすごいことをする必要はありません。普通の仕事と同じで、自分の強い部分を持ち寄って、それぞれ作業を分担すればよいだけ。例えば、私がやっているウェブ作りなんかの場合、「私はレイアウト」「イラストは任せてね」「僕はプログラムやるわ」「私は営業の経験があるので、それをしてまいりますです」なんて感じで、自分が得意なことをやれる範囲でやっていけばいいわけです。「みんなイラストレーター」「みんな営業職」みたいなユニットなら、他のユニットとコラボレーションしてみればよい。それで世界はいくらでも広がっていきます。

これ、リアルのシーンでやると、「ベンチャー企業」と呼ばれるものになります。でも私は、こういうことをやるのに必ずしも会社を起こさないとできない、ということはないと思う。確かに会社の名前があれば強力ですが、今の時代、ネットでつながってるいうだけのユニットなんて、結構、ざらにあって、そう言うところが成果を出していたりする。ネットの世界もSNS(ソーシャルネットワークサービス)なんかの登場でこういうものを推し進める方向にどんどん向いていますし。

こういう、端から見れば「しょぼしょぼ」のものだって、うまくいけば、ちゃんとしたものになりえます。職種にもよりますが、大企業と面と向きあえるユニットにする事だって、自分たちの努力次第でいくらでも可能でしょう。デザイナー、プログラマなんていう「ちょっとした技術系なインハウスワーク」はまさにこういうのに向いていると思いますし、よく考えてみれば、弁護士さんとか、税理士さんとか、そういう職業は昔っからこんな形なんじゃないでしょうか。

もちろん、うまくいかないユニットだってあるでしょう。立ち上げたけど、何もしないうちに空中分解とかいう事だってありえる。それに、会社と違って、個人にかかってくる雑務や責任が多くなることも間違いありません。でも、仕事の多様性を考えたら、働き方の多様性もこのくらい認められてもいいのでは、と私は思います。

つまりまあ、「自分たちで動いてみようぜ!」ってことです。

会社に対する文句を言ったところで、現実を変えるのは相当大変です。例えば、うつ病の場合、病気に対する理解が進んでいないのは相変わらずだし、そういう世の中もそう簡単には変わらないでしょう。裁判に持ち込んでやる!といった方略も可能でしょうが、それには長い時間と大変な労力がかかるし、いろんなものを損する可能性だってあります。

ならば、まず、自分も認めている「会社に行くのがノーマル」という暗黙の了解を一回ぶち壊して、自分で動ける範囲でいろんなことをやってみるというのもいいんじゃないか?というのが私の提案です。

そして、このネットワーク時代にあっては、そういうのは比較的簡単にできるし、可能性だってある。

今の時代、空間的に会社に行かなければできない仕事というのは減っています。打ち合わせとかそういうものは実際に会ったほうが早いかな?っていうくらい。そういう打ち合わせの類ですら、メールやチャットによって絶対ではなくなりつつあります(プログラマなんか、みんな会社に集まっているくせに、メッセンジャーで話してたりするんですから)。

もちろん、みんな集まって何かやる、というのは、それはそれで意味があることです。人間関係を作るとか、社会に関わるという意味では、確かにそっちの力のほうが大きいでしょう。一気に仕事を進めないといけない、なんて場合も、集まってた方がいいと思う。集まらないとできない仕事だってありますからね。でも、「それしかダメだ!」という考え方は、既にもう合わない時代ではないでしょうか。

私たちは知らず知らずのうちに、いろんなものに縛られています。「会社に行く」というのもそういう縛りのひとつだと考えてみることが、いろんなことを考え直すひとつのきっかけにはならないでしょうか。

そして、こうやっていろんなことをやっていくことが、結果的に、いつの日か世の中全体を動かすんじゃないか、とこう思うわけです。

世の中を変えるには時間がかかります。でも、自分を変えることは、意識すれば、1秒でできます。まずは、そこから始めていく、ということで、いかがでしょう。

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