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思い通りの学校を設計しよう!(04年11月)


寝てるとき、なんだか学校の夢を見ました。どっかわからない国の教室で、なんか音楽的なことをやっているという内容で、その時の学校のデザインが結構面白かった(ちなみに私は、フルカラー、3D、サウンドありな夢を見ます。描写もイラストじゃなくて、実写みたい。だから、見て楽しいときもある(普通はリアルすぎてストレス)。

それで、いろいろ思った。例えば、最近、学校とか、子供たちっていろんなこと言われるじゃないですか。昔は低学年も高学年も関係なく、一緒になって遊んでたもんだけど(「児童心理学」とか勉強すると、「ギャングエイジ gang age」って、出てきますね)、今はそんなことないとか、うんぬん。みんな難しい顔して、さも、問題だ!みたいな声で言うじゃないですか。

でもそれって、ある意味、学校そのもののデザイン(design. 日本語に置き換えれば、設計の意。「デジーノ disegno」(イタリア語)、「デッサン dessin」(フランス語)が語源で、どっちも「ドローイング drawing」(描く)の意)が悪いせいもあるんじゃないかな、と思う私です。たとえば、低学年と高学年の教室では、物理的に差別されているでしょう? 高学年になるほど教室が上の階になるとかさ。

そこで。私、さっき見た夢を生かして、新しい時代の学校をデザイン(だから、設計)してみました。今回のタイトルがなんだか「タモリ倶楽部」のとある回のタイトルみたいなのは、そういう理由です(^^;)

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私のデザインでいくと、学校は「ビーカー」とか、「でっかいしゃもじ」、「たこつぼ」みたいな形なります。たこが入ってくるところが、学校の玄関ですね。ここはすっごく広く取る。

そして、そこから教室へつながる太い廊下。ほんとはこんなもん、いらないかもなのですが、この横に「大人たちが集まる場所(=教員室や事務室といったもの)」を置くことによって、大人と子供じゃ違うのよ、というセパレート感を出してみました(気づかねえって、っていう突っ込みは愚問。わかってるから)。ちなみに、これら「大人たちが集まる場所」は全面ガラス張り。したくなくても、そうします。もちろん、中身を透明化することが狙い。形が半円形なのは、この中で(つまり、大人同士の)上下関係を作りにくくするのが狙い。見りゃわかるけど、校長室ってもんすら、このデザインの中にはありません。校長だけ特別化する必要はあまりないと感じるからです(ベンチャーな会社みたいだな)。

この太い廊下のもう片っ方の横には、でっかい掲示板を置いてみました。これは小学校とか中学校とか、それぞれの教室ごとに掲示板があったりしますが、あれの総集編みたいなもんです。それぞれのクラスで何か発表したいことがあったら、どんなレベルの内容でも、ここに貼ってもらいます。個々の教室の外の掲示板はなし。発表するものを制作する段階で、人の目に触れることが前提となるので、ある種の「メディア・リテラシー media literacy」(メディアを読んだり書いたり使ったりする能力のこと)がここに体現されてます。

廊下自体が「太い」ということにも意味があります。いろんな学年の人がめちゃくちゃにすれ違う。そこに意味があります。ただ、すれ違うだけじゃ、大学の廊下みたいで味気がありません。みんな個人個人で、それがふらふら歩いてるだけ、みたいな。そんなんじゃなくて、すれ違ったら、「何かが起きる」必要がある。それを踏まえたカリキュラムが必要ですな。

ビーカーの丸い部分みたいなのが、個々の教室になります。円ですから、個々の教室は扇形です。でも、ただの扇型じゃない。それぞれの教室には「講師控え室」ってのと、「ウェイティングルーム waiting room」が併設されています。

まず、学校の先生がひとりになれるスペースってのを作りたかった。学校の先生っていうと、1日中、集団の中で生活することになるわけです。しかもそれは、大人たちの中、子供たちの中、というそれぞれ違った、ストレンジな状態。普通考えたら、疲れちゃうでしょう? だから、放課後しかひとりになれる時がないとか、そんなのやめて、必要なときに、必要なだけひとりになれるように、そのスペースを作ってみた。子供側からしてみても、安心でしょ? 何か相談したいことがあったら、二人きりになれるんだから。そういうのに使える部屋が身近にあるってのもいいかと思った。大人と子供は明確に区分されるということを体現する目的もあります。

ウェイティングルームは、基本的には、子供たちが自由に使える空間の意。授業と授業の間に、二人で内緒話したいときとか、いいですね。会社で言えば、休憩室とか、喫煙室みたいな空間です。病棟で言えば、プレイルームみたいなもん(何で病棟?)。言ってみれば、子供たちの集団的プライバシーが守られる空間(ただし、変なことが起きないように工夫する必要あり。例えば、全面ガラス張りにして、外から覗けるとか(いくらプライバシーが守られるといっても、周りからの目には一応、注意しないと!みたいな緊迫感))。

でも、本当の目的はそれだけじゃないんですね、実は。発達障害とか、なんかその手のものがあって、特別な教育が必要な子供がいた場合、それをウェイティングルームで扱うことで、そういう子たちを学校から切り離さないという目的があります。もちろん、その時は部屋中カーテンが引けるとか、専門家が入れるとか、細かいところまで気を使わないといけないですが。

教室のそれぞれのドアも、学校によくある引き戸ではなくて、「観音扉」とちょっと工夫してあります。ようは、全面的に開放しっぱなしに出来るようにするわけですね。オープンな感覚が大事かと。

教室から一歩出れば、そこは、ミクスチャ(mixture. 混合)な空間です。何しろ、学年を超えて、教室同士が向かい合ってるんだから。休み時間なんか、すごいことになりそうですね、真ん中の空間は。

そんなの、人間関係的に疲れるんじゃないか?と指摘する人もいるでしょう。でもね、そもそも、異年齢空間にいて、なんで楽しめないんでしょう? 年齢なんて、上がれば上がるほど関係なくなります。なのに、学校の中って、その年齢というファクタが異常に幅を利かせる。もちろん、身体的にまだまだ差が大きいってこととか、いろいろ影響がしてるとは思いますが、それ以上に、学校というものが年齢を使って子供社会を空間的に分断している影響もあるのではないでしょうか。

いいじゃないですか、上下関係があったって。いろんな軋轢があったり、交流があったり、そういうものをある程度、許容していきましょう。そのための、円なのです。社会に出ていく人たちを養成するのが学校の目的なのだとしたら、十分その目的の一旦は果たせると思うのですが。

教育もちょっと変だといいですね。例えば、教科書。あれ、日ごろは図書館に置いて、みんなで使い回すのはどうだろう。授業は「教科書争奪戦」が起きないように工夫すればよい。そもそも教科書なんて、メモ帳代わりにしちゃうような人だけ、買えばいいのです。資源が無駄にならないし、図書館に子供たちを呼び込む理由付けにもなると思うんですが。

そんなことしたら、家で自宅学習とか大変じゃないか、とか、思うかもしれないけど、いや、それは逆です。ていうか、そもそも、そんなに自宅学習の必要性を感じません(予習・復習の必要性はあるとは思いますが、やる直前、やった直後に家でやる、なんて形じゃなくてもいいでしょう)。やるときになったら、みんなやりますって。試験前とか、図書館に列が出来るはずです。教科書の内容をノートに写したりするための列です(コピーは禁止ってことで)。家で「もさっ」と自習するより、そうやって叩き込んだ物のほうが、意外と記憶される。だらだらと勉強するくらいなら、しっかり、きっかり、分散学習(ちょっと違う)。

それに、関係性ができるのが面白いとは思いませんか? 上級生が使っていた教科書を、後で下級生が使う。「え? あの人が使ってたの?」って、面白いじゃないですか。イケメンとか、美人が使った教科書は争奪戦になったりしてね。どうせ教科書なんて数年で入れ替えちゃうんだから。こんなんでいいのでは。

この学校、他にも色々工夫があります。例えば、女子トイレ、女子更衣室は大きめにするとか、最近の学校によくある「コンピュータルーム」なんてもんはないとか。コンピュータルームなんて、いらないじゃん。それぞれの部屋でLANを構築しておいて、使うときだけ、ノートパソコン引っ張り出してくればいいんだから(新しい大学の建物って、そんな感じだし)。ていうか、正直言うと、学校で「情報」(=パソコンの使い方みたいな内容ですな、ようは)を教える意義が私にはよくわかりません。本当の意味での「情報」に関わることを教えるなら、意味わかるんだけども。

気にしたいのは、日当たりです。ライティング(照明)なんか使わなくても、昼間は自然光で十分明るいところにしたい。空間のパース(perspective. 見え方。遠近感。グラフィックで使う透視図なんかのこと)もよくなるでしょうし、壁の色とか、そういうもんも映えてるでしょう。こういうのって、結構大事。何より、健康的。

とにかく、学校ってのは、毎日行きたくなるような、面白くて、楽しい空間である必要がまずあると思うのです。今の学校は堅くて、清潔な感じはするけれど、楽しさは内的に作り出さない限り、感じることができません。学校のカラーは、大体、教育カリキュラムとか、そんな目に見えない、言葉ばっかのもんに現れて、見た目には、全国どこへ行ってもほぼ同じデザインだから個性もないし(ていうか、規則とかで決まってるんだからしょうがない)、逆に、めちゃくちゃ縛られている感じすらします。

これからの世の中にとって必要な人材ってのは、「物をしっかり考えることが出来て、コミュニケーションもちゃんと取ることもできる人」だとよく聞きます。ハードウェアではなくて、ソフトウェアな時代なんだから。だとすれば、人間そのものも「まじめだけど、面白おかしい」みたいな、ソフトウェア的に味があるものにならないといけない。そのためには、その人を取り巻く環境全体が「まじめだけど、面白おかしい」ものにならないといけないように感じます。

今やでっかい企業であるマイクロソフトが、なんで「キャンパス(=会社なのに、大学の構内みたいに見えるので、こう呼ぶ)」を作ったのか。カリフォルニアにあるひとつの街に過ぎないサンフランシスコが、なぜカウンター・カルチャーの中心になったのか。私は、そういうところまで考えを回すべき時代なんじゃないかと思います。そしてそこには、「まじめだけど、面白おかしい人間」を作るキーワードが隠されていると思う。

今の日本の状況は完璧にこの逆ですね。どんどん内にこもる。で、分極化する。でっかいフロー(流れ)があって、その中でいくらか人間関係的にセパレートされているならまだしも、内にこもってセパレートじゃ、ダメでしょう。

人によっては、「円のレイアウトなんて、異常だ!」という人もいるでしょう。でも、そんなことはない。そもそも円は最も美しく、効率的な形です。今まで直方体みたいな建物が多かったのは、そういうのが一番作りやすかったからです。計画的に区切った土地を目一杯生かせるからです。でも、もうそんな時代じゃないでしょう? ほんとの意味で「教育」する時代なのです。そこでいう教育とは、一生涯にわたるような、すっごい長いスパンのものです。もう、ひとつの施設にただ放り込んでおけばいい時代じゃない。だから、そこここにトリックがなきゃいけないと思うのですが。

これからの勝負は「個性 cheractor」だとよく言われます。だったら、建物からそれでいいじゃない。個人的には制服、嫌いですが、あれだって、それぞれの学校ごとの個性が生きてるならいいです。今みたいに、女の子が「制服楽〜。だって、服考えなくていいんだもん〜」とかいうのはおかしいって。日曜日でも着たくなっちゃうような制服ならいいですよ? でも、そうじゃないんだもん。楽だからって、それじゃ、なんのための制服なんだ。

私は、今の、こんなピリピリ、カリカリした世の中なんて生きたくないのです。楽しいこと大好きだし、面白いこと大好きだし。だから、日常のちょっとしたことにトリックをしかけたい。ストレスはあっても、毎日が遊びのような状態。それが理想です。で、この学校のデザイン(繰り返しますが、設計の意)には、その姿勢が入ってます。

まあ、遊びで作ったものですから、許してください。多分、こんなもの、実現化したって、誰も喜ばないと思うもの。頭では「面白いな」とか思えても、それでおしまいです。なにしろ、社会的に理解される「まじめ」ではないから。実際、この中で生きることになる子供たちだって、冷めたものですから、ほとんど意図なんて生きてこないでしょう(人から聞かれれば、それなりの評価はするでしょうが)。特に、都市部に近ければ、近いほど。大人以上に大人ですから、彼らは。

それでもま、こうやって掲げることには何らかの意味を感じますので、とりあえず、あれこれ発表してみました。

ていうか、この原稿を書き終えるのに3時間かかった。8時だったのが、11時になりました。遊びには真剣ですなあ、私は(^^;)

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