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ニュースが嫌い(2004年6月)


私はニュース、特に、テレビのニュースというのをあまり見ない人間です。というか、ニュースそのものに嫌悪感すら覚え、見たくない、というのが正直な見解です(唯一、テレビ東京系の「ワールドビジネスサテライト」だけは違います。あれ、ボーっと見るにはいい感じ)。

ニュースを見たくない、その最大の理由は、取り上げられるコンテンツそのものにあります。

誰々さんが殺されました。と、平気でキャスターは言います。殺された人の顔写真が載せられ、死体が発見されたというその場所の映像も流されます。どのように殺されたのか、そんなディティールも語られます。報告は逐一アップデートされ、例えば、その人の友達や近隣に住む人の家に行って、その人の人となりを取材したり、最近の様子を聞いたりして、情報を付随していきます。

これはテレビのニュースではよくあるシーンです。でもね、私としては、こんなの、ひとつとして見たくないんだな。そもそも、そんな事件があったことすら、知りたくない。

誰々さんが殺されました。というニュースを聞くたび、真剣に心が痛くなります。別に友達でも知り合いでもないわけだし、深入りして聞く必要なんて、全然ないのでしょうけれど、深入りしたくなくたって、体は勝手に反応するのです。そして、最後は耳を覆って、情報を拒絶したくなります、毎回(若干、表現はオーバーですが)。

というか、人ってこれを普通に見れるんだなあ、と思ったりもする。ここで言う普通とは、この情報に触れた数分後に、笑顔になろうと思えばなれることです。笑えることです。誰々さんが殺された、と聞いても、それを情報として処理できる。私にもその情報処理能力があれば、こんなこと書かないで済むんでしょうが…。

私はこういう事件の話を聞くたび、内輪でとどめておいてあげたら?と思います。殺された人はもう亡くなっているのかもしれませんが、家族は生きているんですし、友達だっているんでしょうし、関係者だっているんでしょうから、騒ぎ立てず、穏便に時を過ごさせてあげたいなあ、と思うのです。

ところがまあ、現実というのはそういう風にはできていなくて、「報道」の名の元に、センセーショナルに取り上げられてしまうのが普通です。若い人が事件を起こしたり、そのターゲットとなった場合なんか、余計でしょう。私は、そういう事例を見るたびに、ニュースを見るのがどんどん嫌になります。

伝える彼らも人間です。多分、現場ではいろんな思いにかられたりしているのでしょう。でも、一旦カメラが回り始めると、事実を客観的に伝える報道の精神だとか、いろんな思惑だとかが働くのか、そんな思いは半分も伝わらなくて、事件のセンセーショナルさしか見えてこない。少なくても、私にはそう感じられてしまっています。

だってさ。殺された人の顔写真なんか、出す必要ないでしょう、ほんとは。どうやって殺されたかなんて、取り上げる必要ないでしょう、ほんとは。交友関係も、私生活も、私たちに提供しなければいけない情報ではないでしょう、ほんとは。

なんでそんなにいろいろ暴かないといけないのだろう。誰がどんな風に生きるか、それは自由であり、それはプライバシーという名で守られなければならないものであるのなら、亡くなった後でも、どういう亡くなり方であろうと、そこには守られるべき自由、プライバシーがあるはずです。なんで、そこがひっくり返るかな。顔写真をバシッと出し、ショッキングな事象を、私生活を必要もなく公開する権利が、家族でも関係者でもない、赤の他人であるメディアになんであるのかな。

まあ、これはいくらでも理屈がつけられます。そう、忘れてはなりません。報道の現場にいる人たちは、その出来事を伝えることで、生きているのです。食べているのです。彼らにとって、それらの事件は、何事でもある以前に、仕事として取り組まないといけないもの。そう考えれば、わからなくもない。

でもね。私たち視聴者サイドが、それに慣れると怖いと思うんだな。

今や、どんな事件が起きてもあまり驚かないでしょう? 人が死んでも、あ、そう、くらいで流れちゃう。どんな事件があっても、へえ、で終わっちゃうのです。

そんな状況で言い訳がない。世の中はエンターテインメントじゃないんです。リアルにその出来事は起きているのです。誰々さんという人が殺された、ということは、現実として、その人が生きた歴史が暴力的に強制終了させられているのです。家族はリアルにお葬式を挙げ、火葬場では遺体が処理されるのです。それが現実なのです。どこかで起こっている遠い話じゃない。ほんの数百キロ先で今起きている出来事なのです。なんでこんなことが平気で流れちゃうのだろうね。

直接は関係ないから、というのもあるのでしょう。さっきも言ったように、やっぱり他人に起きた出来事なのですから、そこまで考えが回らないのは無理ありません。ていうか、回る私が過剰なのでしょう。でも、それ以上に、この手の話に対して、感覚が鈍感になっているんじゃないか、と私は思ったりする。

私はそのような意味でも、ニュースを受け入れることができません。私は、そんな風に感覚を鈍感にできないのです。その手の処理は苦手なのです。

これからも私はニュースのことを毛嫌いし続けるでしょう。多分、世の中においてはマイナーなのでしょうが、それは私が私であるアイデンティティのひとつといえるかもしれません。

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