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本能寺の変とキリシタン教会

[文学部教授 浅見 雅一+]

文学部教授
浅見 雅一

六月といえば、戦国時時代には有名な大事件が起きている。本能寺の変である。天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)未明、明智光秀が主君の織田信長を投宿中の京都本能寺に討った。この事件をめぐっては様々に議論されているが、特に関心を惹くのは、なぜ光秀が信長を討ったのかであろう。光秀の背後には黒幕がいたと言われることさえある。近年、長宗我部氏との関係をめぐる新史料が紹介され、信長の四国政策が注目されている。

本能寺の変は、私が専門とするキリシタン史にも関係する。イエズス会のルイス・フロイスが著書「日本史」において本能寺の変に言及していることはよく知られている。この記述は、一五八二年十一月五日、口之津発、同じくフロイスの「一五八二年の日本年報の補遺」が基になっている。イエズス会の日本年報は年に一部作成されるが、同年は本能寺の変という重大事件が発生したので、通常の日本年報に加えて執筆されたのである。前年、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、信長に招かれて安土に滞在している。フロイスは、その際に通訳を務めたが、その後ヴァリニャーノと共に九州に移動しており、本能寺の変には遭遇していない。それ故、フロイスが執筆したものは史料価値が高いとは言えない、とはよく言われる。そうはいっても、その割には本能寺の変を検討する際、フロイスの記述はよく利用されている。信憑性の高い史料が少ないとはいえ、史料の性質を考慮しないのでは学問的とは言えない。

それでは、こうした史料は、本当に信憑性が低いのか。はたして、どこまで史料として使えるのか。フロイスは、確かに本能寺の変に遭遇したわけではない。しかし、当時、本能寺近くのキリシタン教会にいたフランシスコ・カリオンが報告書を作成している。他方、安土の教会にいた都の教区長ニェッキ・ソルド・オルガンティーノは、事態を受けて急遽京都に向かうが、途中光秀のいた坂本に立ち寄っている。この経緯は、彼に同行したシメアン・ダルメイダが報告している。ただし、カリオンの報告もシメアンの報告も現存していない。それでは、当事者の報告の手掛かりはないのか。実はフロイスは、「一五八二年の日本年報の補遺」の作成に当たって、九州に送られたカリオンの報告を二分割し、そこにダルメイダの報告を挟み込んだものと考えられる。詳細な論証はここでは割愛するが、フロイスによる加筆はそれほど多くなかったどころか、ほとんどなかったと考えられる。

そこから何が判るのか。従来フロイスの創作であると考えられていたことが、当事者の報告の引き写しならば事実を反映していた可能性が高いと言える。すると、その先には何かないのか。ここから本能寺の変の真相に迫れないのか。キリシタン史料は、はたして日本史上の重大事件の解明につながるのか。最近、あれこれと考えているところである。

『三色旗』2016年6月号掲載

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